声
まだまだ普通に話せない。首を絞められた状態がずっと続いている感じで、かなり慣れてきたけれど。
食事中の会話が最も難しい。喉の筋肉の関係なのか、絞り出すようにして、ようやくかすれた声が漏れる。
今月定期検査で京都へ行く。手術費用は安く済んだけれど交通費が大変。混雑が苦手だから日帰りで行って帰ろう。
発声が安定しているときは手術してよかったと思う。以前は低い側に声が抜けないか不安が消えなかった。いつも緊張していた。
手術前、声の周波数を測定したところ、十分な高さと安定感があった。
執刀医は ”(手術する)必要ないじゃないか” と言った。
その数カ月前の事前の検査では、他の医師から同様な指摘を受けた。
随分と努力して身につけた声だった。
けれど気を抜くと底に抜ける(低音が出る)のが怖かった。
目一杯低い声を出そうとしても、今はもう機能的に出ない。やるべき事をやり終えた夜、開放的な気持ちでゆっくり眠るような気分で声を出せる。
かつて泣き続けた夜、声が追い打ちをかけた。決して消せない烙印のようだった。
そんなこんなで私は自分の声を捨てた。
顔の整形のことばかり考えていた時期もあった。
今は顔の整形はしないで終えようと考えている。
魅力的な着こなしに専念しよう。
声の彩り
数日前に金沢に日帰りした、突然の用で、文字通りの急用で。
新幹線が開通しているので考えていたよりずっと行きやすかった。
予定を果たし帰宅し、勤務を続けている。
体がある場所が自分の居る場所。
車中で川端康成の記録を読んだ。その関連で三島由紀夫の記述があった。
三島による文学作品評は、批評眼と批評の文章力いずれもが突出しており圧巻だった。
興味を持ち三島についての記録を読み、三島事件と呼ばれる一連の出来事を知った。およそについては知っているつもりでいたが、整理された記録を読みとても驚いた。
戦後このような事件が起こっていたのか。
タルコフスキーの映画『ノスタルジア』では、広場の彫刻の上で演説する男を描いている。
ヴェンダースの映画『パリ、テキサス』では、高速道路の高架道上で演説する男を描いている。
いずれも声をあげ、悲痛な思いが声と共に震えている。
危惧、焦り、救済への呼びかけ・・・。
三島の演説する姿が混ざる。
いずれの監督も三島からヒントを得たのではないか。
事件に関するコメントはどれも白々しく俗っぽく思えた。
経緯如何に関わらず自己宣伝することをやめられない者の多さにあきれ、それこそが彼を死に追い向けた汚れのように思えた。
声
仕事の追い込みがあり飛ぶように毎日が過ぎ、年を越して今月に入り、ようやく一息つけるようになった。
前回投稿は9月で今はもう2月。
よく働いた。
この間、三度の講演会があり、今月上旬の三度目を終えた二日後、喉の手術をした。
まだほとんど会話ができない。
十日近く筆談で生活した。
術式から、声量や声域は大きく減衰するようだ。
体に手を加えるのはこれで最後にしたい。
近況
年内は仕事が忙しい。
先月は毎日のように執筆を続けた。
何万文字を書いたろう。
今月は移動や撮影や、その他作業が予定されている。
ここ数年の安息を思えば今年一杯の状況は受け入れるべきだろう。
この場所は懐かしい。
タイから帰国してすぐ開設し、現地の写真や記録が残っている。
大きな転換だったと数年を経て思う。
当時はただ嬉しいばかりだった。
日に何度も良かったと、今もかみしめるようにそう思う。
心地よい空間に身を置き、おいしいお茶の時間を過ごす。
かつて経験した各地の空が、光が、時間がこだまする。
まるで時の旅人のようだ。
9月がまたやってきた。